サマーウォーズ
画像表示切り替え監督: | 細田守 |
---|---|
出演: | 神木隆之介、桜庭 ななみ、富司純子、谷村美月、斎藤歩 |
時間: | 115分 |
公開: | 2009年 |
キャッチコピー: それは戦争という名の、とてもやさしい物語。 | |
ジャンル: アニメ(日本) |
コメント一覧
石田憲司 | 簡易評価: なかなか | 見た日: 2011年12月02日 | 見た回数: 2回
陰下洋子 | 簡易評価: いまいち | 見た日: 2010年05月05日 | 見た回数: 1回
スイッチを入れたら、たまたまやっていたので、ついつい見てしまった…。 だとしたら、まぁおもしろかった。
そして、これはジブリ作品? と無知な私ならそう思うはず。
観た後、ずっと何か感じていた違和感は、
さわやかすぎ?
細田守は、そんなさわやかな男ではない。もっと、ねちっと&じっとりな男だ。社会人になってから彼に何があったか知らないが、いい意味でもっと「アク」とか「クセ」を出した方が、彼らしい。
戦うべき悪者も、コンピューター(インターネット)の中だから、おばさんの私にはピンと来ないのかな。いじけるわけではないけど、
さらっとさわやか、ノレないアニメ という感じ。
できるなら、15歳若くて、男というシチュエーションでもう一度観たみたい。
※ご存知の方も多いですが、細田守は私と、高校、大学、デッサン教室を通しての同級生であります。
ま、しかしここまでみんなにアーダコーダ言われる監督になったって事は、ご立派です。
遠い昔、田舎(彼の作品によく出てくる空がだだっ広い景色に似ている)で一緒にイーゼルをたてて、マルスを描いていた仲間がこんな有名人になって再び現れるとは…。
私も、自称デザイナーだけど、素直になんか、がんばろっ! て気持ちになりました。
最後にもひとつ
OZ内のグラフィックデザインをしているのも大学時代の友達 鈴木克彦(通称;かっきん)。彼は昔から出来る人だった。
石田憲司 | 簡易評価: なかなか | 見た日: 2010年04月15日 | 見た回数: 1回
いろいろと良い悪いの物議を醸している本作ですが、なるべくプレーンな気持ちで見ようと挑んでみました。とはいえ、やはり多少は引きづられてるんだろうなぁ。
ある年齢層を境に受け入れられる人と全然駄目な人とに別れるんではないか。年を取るほどしっくりこない点が目についてダメなんじゃないか。という仮定のもと、若干マイナススタートからの視聴。元々は、えらく評判もいい映画なので、昨年度のベスト○○に入るんじゃないかと思ってたくらいなんですがね。
さてさて、見終わっての感想から。面白かったですよ。テンポよく話が進みすぎて深みにかける部分はあるものの、2時間ちょい、飽きることなく見れたと思います。ただ、「時をかける少女」を見た時の爽快感とは若干受け取り方が異なります。
まず、長野の実家に集まって、一室でわいわい好き勝手しゃべったり、おかあさんがたが台所で一緒に用意したりという風景もなんか子供の頃、元旦とかにおばあちゃんちに帰った時の風景を見ているようで気持ちのよい気分になりました。この辺は「時をかける少女」の時も感じましたが、なーんか彼の作る現実社会と僕の中の懐かしさのイメージがうまいこと同調してるのかもしれません。
男(の子)たちが「リベンジじゃー」と騒いで突っ走っている一方で、女の人たちが現実社会でのやるべきことをてきぱきとこなしていく様子。こういう対比もなんか好きですね。なんだかんだで男(の子)たちがむちゃくちゃにしちゃったものを拾い集めてまとめてくれるのも女の人(というかおかあさんがた)の手腕ってやつです。
なんかいろんな方面から戦える準備を整えてるとことか、損得なしのネットの住民たちが力を結集して・・・というところなど、好きな要素のもたくさんありました。
あと、これは触れずにはいられない、いいキャラでした。おばあちゃん。彼女が前半を引っ張っていたと行っても過言ではない。軽い扱いで、さらっと活躍してるだけしか見れなかったので、もうちょっと掘り下げてじっくりおばあちゃんを取り上げてほしかったんですが、先頭きって突き進んでる時も失われてからも主人公と呼べる存在感を一番放ってたように思います。
ただ、「時をかける少女」に比べて、所々引っかかるなぁ。というところもちらほら。
まず、しっくりこなかったのはOZが常にある世界。どうもあの「アバター」とかキャラクター世界に違和感というか抵抗を感じてしまう。あのパステル調で、丸いころころした世界を見てるとどうも、僕の中では堂々の残念アニメ「ブレイブストーリー」の世界を思い起こしちゃうんですね。コンピュータネットワークの世界って、あーいうキャラの世界になっちゃって、既にそれが一般的に受け入れられてるんだろうか?
この辺は例えばMixiとかモバゲータウンとかによく触れてる年代からすると「何がおかしいんだか?これだからおじさんはダメなんだ。アバターもデフォルトの何もいじってない、遊び心のないやつだし・・・」ってなことになりかねないんですがしょうがない。苦手なもんは苦手なんだから。もしかすると、どっかで読んだ「wikipedia)">デジタルネイティブ(参照:時をかける少女」に比べると、誰を中心に見てたらいいのかがいまいち定まらなかったんですね。
ヒロインというか主人公というかな夏希ちゃんを見るべきなのかな?現実の世界中心に生きていて、親戚や家族を大切にする、元気な女の子。おじさんや男の子たちの理想を満足すヒロインとしてはちゃんと成り立っていると思います。でも、どうしても飾りにしか見えない(ラストの方で出てくるけど、途中消えてる気がする)。
じゃ、あの男の子かといわれると、こちらもちと弱いな。今時の男の子らしいっちゃらしいけど・・・。じゃ、代わりに・・・
あれ?主人公がいない。
あえてこの物語に主人公をということになると、メンバー総掛かりでもおばあちゃんの一人の存在感を埋めきれなかったとはいえ、やはりこの家族親族丸ごとがひとつの主人公としてとらえるしかないのだろうか?
マイナススタートが功を奏した面もありますが、なんだかんだで楽しく2時間見ることが出来ましたんで評価としては悪くない。「なかなか」ちゅうとこかな。
個人的にはジブリを頂点とする日本アニメ界にあって、数少ない、この監督なら見てみようかしら(駿は別格ですよ)と思える人なので、自作はまた「時をかける少女」のような人の物語を期待しちゃうなぁ。
柴田宣史 | 簡易評価: ざんねん | 見た日: 2010年03月28日 | 見た回数: 1回
昨日、丞二と「風の谷のナウシカ」について話した。以降のスタジオジブリの作品群に比べると、やっぱり物語の完成度が低いような気がする。でもね、丞二。動きがいいのだ。父を殺したトルメキアの兵隊を杖のようなもので撲殺した後、後ろに飛び退るナウシカ。顔はあくまで眼前の敵から動かすことなく、その辺りにあるはずの剣を手で探す。つまりアクションに理由があるのです。
あれは2年前かな。ひょんなことからのぐちと二人で「涼宮ハルヒの憂鬱」というテレビアニメシリーズを見たとき、話数を水増しするための挿話的なエピソードはさておき、本筋部分では、「ふーん、アニメもそれなりに面白いことがあるものだなあ」と、感心をしたものですが、この「ハルヒ」には、別段、意味のある説得力のある動きなんてないのです。いわばただ着想が面白いのと、女の子がかわいいというだけ。そのときにちょっと思ったのです。女の子がかわいければ、なんでもいいのかもしれない、と。
でも、だんだんと娘が大きくなってきて、一緒に物語を楽しむことができるようになってくると、もうちょっと見る姿勢が変わってきます。それは「しずくちゃん」だの「なんとか森のラスカル」だの、あるいは「それいけ!アンパンマン シャボン玉のプルン」だのを見ていて、背筋が寒くなるのを覚えたからでしょうか。またここで考えが改められます。どんな物語であっても、だれかが一所懸命つくったものであって、その一所懸命作ったものが、みんないいものであれば、それに越したことはないけれども、やぱり好みというものは厳然と存在して、僕たちがその好み、つまり価値観を告白することは、僕たちにとって大事なことで、面白くないものを見たときには、やっぱりそれが面白くないということをきちんと見つめることが、自分にとっても他人にとっても自分の人格を理解するために必要なことのなのだと。
好きな食べ物や嫌いな食べ物から世界と自分の輪郭を描くということも、きっとできないことではないとは思いますが、面白いものや、つまらないもの、好きなものや嫌いなものを描いていくことが、自分を表明することであり、物語というものは、それが僕たちと世界(彼岸)の接点であるが故に、非常に、その好悪が重要なのです。繰り返しますが、僕たちの知覚は、世界そのものを受け取れないようにできていて、やっぱり物自体ではなく、物語を通して世界と接続しているものなのです。
映画部の合い言葉である「期待をしない」というのは、いわば映画を楽しむひとつのコツだとは思うけれども、でも、僕たちは個々の映画作品に対する期待など以前に、「物語」というメディアに強く期待をし続けているのです。
* * *
なんで、こんな前置きなのか。石田さんには「スカイ・クロラ」をみたら、きっと柴田は気に入らんだろうから、クソミソにけなすだろうから、それが楽しみ、と言っていたけど、そのMPをここで使うからです。今度の魔法は大量の精神力を使うので、準備も時間がかかったのです。
以下は、ネタバレを含みますが、あえてネタバレタグは使いません。このスクロール量に、なにか意味があるような気がするからです。しかもほめていないので、その手の文章が嫌いな方は、読まない方がいいでしょう。
* * *
物語のプロットは、軍事目的のプログラムの暴走というやつで、古くは「ウォー・ゲーム」なんかでも扱われいているテーマで、それなり楽しい話も作れる物語類型だと思います。「サマーウォーズ」のミソは、J・P・ホーガンの『未来の二つの顔』でもありましたが、そういうプログラムに「知識欲」を与えることで動機付けになる、というものですが、まあ、もうそのあたりはどうでもいいじゃないですか。旧家の団結を描くために、100%悪者にしても誰も傷つけない、非人間的な敵であれば、物語の構造上、なんでもいいのです(こういうので巧いのは、フレッド・セイバーヘーゲンの『バーサーカー』シリーズですね)。
物語のキックオフは、実家に向かう電車です。実はこの前のシーン、物理部の部室で、「必要なバイトは一人なの」と、人差し指をたてる夏希にゾッとしたのです。うわ、また気持ちの悪い、不要な演出の多いアニメなのか、と。でも、この「実家に向かう電車」は、いい出だしですよね。物語はこう始まらなくちゃ。
実家につくと、地元である上田の高校が、甲子園で試合をしている。定番としては、この野球の試合の浮き沈みが物語とシンクロするんだろうなあ、と思う訳ですよ。で、それも別に悪い手ではない。物語の調子をつかむのにとって古典的で、かつよい手法です。このあたりで小惑星「イトカワ」のパロディなんかも出て、ああこれもなんか後で使うのね、と記憶にメモ。
別に覚えなくてもいいけど、登場人物をざーっと紹介した後、物語が本題に入るのは一通のメールからです。これもいいですよね。謎のメールが、扉を開く鍵なのです。手堅い本題への入り方ですが、しかしこのあたりまで定石を踏んでくると、丞二が「ピタゴラスイッチ」というのもわからんではないなあと思い始めます。きっと描きたいことを描くためには、この辺りではあまり冒険をするべきではないという判断でしょう。でも、丞二がピタゴラスイッチ式の物語展開を批判するのは、天に唾するようなものです。僕たちのやりとり、あえていやな術語を使えば「コミュニケーション」は、じつは定型句をどのように配置するか、でほとんど成り立っているのです。映画の構造だってそこから著しく外れることはありません。どんないい映画も、悪い映画も、どうせピタゴラスイッチなのです。太陽の下に何も新しい物はありません。そして新しい物がある必要もありません。問題は、見た人の文脈くらいでしょう。見終わった後、「あー、面白かった」と素直に言えれば、とても幸せだし、今回の僕のように、暗澹たる気持ちになれば、ただ残念だっただけです。
僕にとっては、なにが残念なんでしょうか。電車からの物語の始まり方で、ちょっと気分を持ち直したものの、やっぱり冒頭の夏希の人差し指が不快だったのでしょうか。ここまで書いてきた通り、「いかにもな演出」をこれだけ肯定していても、あの人差し指が、僕の気持ちを打ち砕いてしまったのでしょうか?
いや、いまは結論を急がず、なんで残念な気持ちになったのか、さらに物語を追いかけてみましょう。
そのメール以降、OZの世界が急変します。その混乱はほぼ対応構造にあたる実社会にも影響を与え、世界中がたいへんなことになります。夏希のおばあちゃんは、権力筋への影響力を駆使して、事態の収拾に働きかけます。これも「96時間」で書きましたが、まあ、いいじゃないですか。眠れる獅子が、起きて吠える。能ある鷹が爪を出す。実力のあるひとが、その実力を発揮するのを見ているのは気持ちのよいものです。
おばあさんは死ぬ直前に、健二くんに娘を頼む、というような趣旨のことを言います。なんでなんでしょうね。おばあさんの表情からは、意図がよく読み取れません。まあ、もういいか。と進みます。わりとすぐ、おばあさんは死に、夏希は縁側で泣きます。ここで出てくる台詞が「止めて、涙」です。人差し指に続いて、奇しくも夏希で二発目のカチンです。この一言が、夏希のみならず、どれだけ作品全体の人格を薄めると思っているのでしょうか? 考えてみてほしいのですが、自分の好きな人、奥さんでも友人でも、子どもでも、好きな人が死んだときに、こんなシャレた台詞を言える人に、人の血が通っていると想像できるでしょうか。「もしかしたらお母さんとあえなくなるかもしれない」と、井戸端で泣く「となりのトトロ」のサツキと、どちらが人間のようでしょうか。
何回も書いていますが、アニメというのは、非常に不利なメディアです。工数がかかる上に、中途半端に器用だから、いろんなことを伝えられます。これが小説であれば、こちらはほぼ物語を伝える上では万能なので、たとえば難しくても人の表情を、心の機微と一緒に「書かれた言葉」で伝えることができます。実写映画の場合は、役者の力量に依りますが、うまい役者とうまい演出にかかれば、そこに及ばずとも小説を目指すことができます。でも、アニメの場合は描かないといけません。描かれた物は中途半端に伝わり、描かない物は、なかった物のように思えてしまうのです。手を抜けば抜くだけ、スカスカになっていきます。アニメを見るたびにそのストレスを感じながら、でも、そういうストレスを感じない作品だったらよいなあと思いながら見るのですが、本作では、この一言で、少しずつ蓄積してきたそのストレスがはじけました。もう、男前のおばあさんも、放蕩息子も、数学の秀才である健二くんも、それこそ体育館一面に並べたドミノがざーっと倒れていくように、一気に書き割りになっていきます。
ところで、物語には類型があり、類型から著しく外れる物語というのはきわめて希少です。だから、それが定番かどうか、というのは本質的な批判の形をとるのが難しいのですが、その類型の中でも、ある一つの技術を極めた団体があります。それがハリウッドです。ハリウッド映画というものは、売れてなんぼの世界です。「その物語が本質的におもしろいかどうか」を問われてきたのは80年代までではないでしょうか。売れる映画の類型というものは決まっていて、観客心理は研究し尽くされ、どこでどのようなコード進行の音楽を、どのように流すか、カメラの動きと、登場人物のどういう構図をあわせると、見ている人が気持ちよいか、つまり、なんもかんも暴き尽くされています。まさにアヘンのようなもので、80年代までに大衆の好むものについて、まだ研究の余地があった頃からすれば、定石がわかったいまでは、ターゲットごとにあとは作業を繰り返すだけで映画ができていきます。
それをわかって作っている人、それをわかって見ている人だけではないのが悲しいところですが、本作について言えば、細かい相似形の構造物が一斉に動く心地よさをやりたかったことが如実に伝わってきます。古くは「アキラ」なんかで、最初にタカシがビルの窓ガラスを割るシーンで、ビルの一面に光が走った後割れるような動きのことですが、やっぱりそういうものは見ていて気持ちがいいことは既にわかっていることです。でもね、いくら性感帯をいじってたら気持ちよくなることがわかっていても、いじりすぎたら痛くなるし、そもそも趣味が悪い。
物語は佳境に入り、花札の勝負になります。一時はラブ・マシーンを追いつめるものの夏希は窮地に追い込まれ、状況は絶望的になります。そこにポツンと現れる、アカウント移譲の提案。「止めて、涙」発言から、もう一緒に楽しむ気持ちをそがれている状況では、もはや定石を喜ぶというように気持ちを位置取りできず、ありがちな展開、みえすいている「作者のやりたいこと」に対する嫌悪感で、室内にも関わらず、唾を吐きたくなっています。その次は不快だった人差し指再び。無能なセキュリティプログラムのジョンとヨーコの援護でなんだかアバターの変身です。この変身のシーンが、また説得力のない間と気分の悪い動き。物語の構成上なんら重要でないシーンであっても、子どもたちを含め家族一同の目を釘付けした「ナウシカ」の数々のシーンを思い浮かべ、不覚にも涙が出そうになりました。畳み掛けるようにブラッカイマー+エメリヒッヒ方式。戦っているのはアメリカだけでなく全世界だ、というアレですよ。
止まるべきカウントダウンが止まらないのも、もう何回見たかわかりませんが、止まるな!と思いながら見たのは、数えるほどしかありません。いまその数を言えば1回です。もうこのうすぺったいひとたちを滅ぼして、全部冗談だったと言ってほしい。そうすれば、この作者の次の作品を見る気も起こる。
『未来の二つの顔』では、人工知能の描写にある種の厚みがあります。この厚みがラストの人工知能のアクションをいやが上に盛り上げるのですが、家族を一致団結するための構成上の役割しか持たないラブ・マシーンは、ただ「家族団結完了」を祝うためだけにハデにやっつけられます。
僕たちの世代が、アニメを消費していた時代から、制作する時代に移ったとき、僕たちはだれもみな「あの作品で見た、あれをやりたい!」と思ったことがたくさんあります。それが、見ている最中に時々幻聴のように「監督の声」として聞こえてくるのですが、それを見たときに「ああ、その気持ちがわかるよ」というときと、ただのパクりにみえるときとがありますが、キスシーンで終わる映画は数あれど、そこまで物語を一緒に進んできた仲間だと思うから、そのキスシーンを我が身のように喜べるのであって、好きになれない人たちのキスシーンなんて、見てもなんの気持ちも動かされません。で、またそのキスのあとも、日本のアニメ特有の没個性的なリアクション。
ここでハタと気づきました。「涼宮ハルヒの憂鬱」をなんで楽しむことができたのか。グラビアアイドルがかわいく雑誌を飾っているだけで、それだけで十分なように、「ハルヒ」も、それでいい話なのです。伏線の妙味や、SF的ガジェット、あとかわいい女の子があれば、それがあのアニメの立派な仕事だったのです。それは決して「ハルヒ」を所詮ライトノベルと馬鹿にしている訳でなく、きちんとなすべき仕事をしているのだ、ということなのです。
物語の終盤、おばあさんの遺言状が読まれます。出来の悪い子ほどかわいく、なにかほかに思い残すことがないのかもしれませんが、放蕩庶子のことしか言いません。遺産配分について若干言及しているくらいで、つまりこの遺言状は、いわば「泣かせ」のためだけにあるのです。そうやって、登場人物をうすべったくするというのは、登場人物を踏みにじることだし、観客の心に出来の悪い泥団子を「これでも食っておけ」と投げてよこすような行為です。かわいい女の子が、ハチャメチャする話の方が、人を傷つけないだけでなくそれなりに心地よくしてくれる分、はるかにましです。
けっしてアニメで、人の心に触れるような話を作れない訳ではないです。もうどうやったら人が感動するかは、さんざん実証実験済みでしょう。ジブリがやったようなことでいいじゃないですか。よい物語は無限にあり、これからも無限に作られます。「サマーウォーズ」だってそういう作品になる可能性があった作品じゃないですか? だって、物語の展開は定番なんですよ。あと、もうちょっと登場人物に命を吹き込めば、みんな力強く立ち上がったはずなのに、こんなに吹けば飛ぶような人物たちになってしまったのは、やっぱり監督の責任が重大だと思うのです。アニメ版の「時をかける少女」がつまらなかったときに気づくべきだったのかもしれませんが、きっと、この人が語る物語にちょっとでも期待をした僕が間違っていたのでしょうか。
* * *
というわけで、けっこう使い切ったので、「スカイ・クロラ」は、すかすかの感想になるかもしれませんが、それにしても、もう1時間も書いてしまったのでここでやめます。でも、書ききらないと、駄目な気がしたのです。
本当は丞二が「コミュニティとソサエティ」みたいな出だしだったので、ちょっとペダンティックにテンニスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』からでも書き始めて、江戸の敵を長崎で討つべく、適当に丞二の批評の甘さでもおちょくろうと思っていたのですが、松田くんやハルが好きな作品だと思うと、中途半端にはけなせず、僕自身と「物語」との今後の関係のためにも、僕自身がきちんと僕が理解する必要があると思ったのです。当初、松田くんが映画部にコメントを書いたとき、石田さんと二人で「非常に映画部の使い方としてよいね!」とかなんとか言っていて、軽い気持ちでいたのですが、思った以上に、僕にとって重要な作品になってしまいました。ので、僕も一所懸命なのです。どうか読んで気を悪くなさった方、ご容赦ください。
尾内丞二 | 簡易評価: まあまあ | 見た日: 2010年03月10日 | 見た回数: 1回
バーチャル・コミュニティー『OZ』(ここまでくるとバーチャル・ソサエティーの方がしっくりくる)で人工知能『ラブ・マシーン』が起こす混乱に対し、それとは一見無縁に思える田舎の旧家『陣内家』の家族が戦争を仕掛ける物語。
かなり面白かったよ、サマーウォーズ。
気丈なお婆ちゃんが妾の子を案じて書いた手紙のくだりで、思わず泣いてしまいました。
…にしても松田のコメントがアレですね。
「すごく良かった!」
「もう一回見たい!」
「もう一回見た。」
「やっぱり良かった」
「サントラも買った。」
「うししし。」
小学生でもも少しマシな感想文を書くぜ。
こんなんで「おすすめ!」とか評価されても誰も信じない。
ここから先は物語の核心に触れる内容が含まれます。
まだ観ていない方は読まないで下さい。
全国のがっかり映画ファンのみなさん、おまたせしました。
「ここがダメだよ、サマーウォーズ」の時間です。
まずは世界中の行政機関及び施設にも接続できるネットワーク『OZ』。なんだソレ。
『世界一のセキュリティー』と言っておきながら、国際数学オリンピックの日本代表にもなれない高校生が一晩で解読できるレベルの暗号でしか守られていないし、そもそも運営している企業の名前が一度も出てこない。
つまり『OZ』はネットワークサービスではなく“並行して存在するもうひとつの現実世界”という立ち位置であり、その存在理由を逸脱するような説明は一切されていない。
自分の世界に引きこもりがちな軟派なオタクが、物語のフィールドとして創った都合のいい仮想世界が『OZ』なのだ。
それでいてその世界を守護するのはラブ&ピースの代名詞『ジョンとヨーコ』。守護者といいつつ無能なクジラ。バカにしてんのか。
次に人工知能『ラブ・マシーン』。
映画「ウォー・ゲーム」に登場する自律型核戦略プログラム“ジョシュア”に似てはいるが、実態はただのプログラムで、物理的なハードウェアが存在するワケではなく、ほとんどただのコンピューター・ウィルス。
しかも驚くほどにダサいネーミングだ。クールでシニカルな詫助おじさんが考えたとはとても思えない。“暴走する事を前提として制作者が考えた名前”以外の何物でもない。
『マシーンが“愛”を求めて暴走する。コレよくね?』
そしてそれを身勝手にも『OZ』で試験運用させたのは悪の枢軸“アメリカ国防総省”!!
…へえへえ。巨大な陰謀とくりゃあやっぱりCIAかペンタゴンでやんすか。『OZ』は自分トコの関係各省も繋がっているのに、そんなとこで試験運用するわけないだろ。士朗正宗の漫画でも読んで、もちょっと考えろ。
お次はDVDジャケットの中央に仁王立ちするヒロインの夏希ちゃん。
存在感は薄いしポリシーはないし、高校生のクセに後輩を長野の実家まで引っ張ってきて「私の彼氏のフリをして!」とかアラサーでも言いにくいお願いとかするし、好きでもない男の子に「涙が止まらないから小指を握って」とか強要するし(結果、逆に大泣きするし)。
物語の中核を担っているかと思いきや、主人公を陣内家にひっぱり込んで風呂上がりの半裸をチラッと見せたらもうお役御免である。別にいなくてもいい。
そして物語終盤、陣内家を守るためにラブ・マシーンとせめぎ合うシーン。
最悪。…っていうか最低。
衛星軌道を外れて大気圏に突入した人工衛星はGPSの誘導で正確に陣内家に墜落することが判っているのに、偽の時刻設定を送り込むことで“正確には判らないけどちょっと離れた別のどこか”に落とそうとするのである。
舞台は長野県だから「ちょっと離れ」ても内陸部。ほんの数分前には世界中の人々からアカウントを委ねてもらってラブ・マシーンとのギャンブルに勝てたにも関わらず、その恩などはどこ吹く風で無差別弾道弾と化した人工衛星をご近所にお見舞いしようというのだ。
ネットを通じて世界中の人々の心が一つになったかと思いきや、そんなのは初めっからマヤカシで、最終的には自分と自分の仲間が大事。あとはどうなっても知ったこっちゃない。
最近の若者が他人に思いやりを持たない理由をこれでもかと正当化するストーリー展開だ。
それでいてエンディングには家族そろって大合唱。
『家族って素晴らしい!人類みな兄弟!』みたいなフザけたまとめ。
監督の人間性を疑うに充分なストーリー構成である。
「時をかける少女」では主人公マコトの心の動きを見事に描いていたのに、今作ではキャラクターの心の動きは一切描かず、豊富に登場するキャラクター群をただの“将棋盤の駒”としてしか扱っていない。
堅い信念と真摯な博愛を備えたお婆ちゃんですら『そういう駒』なのだ。
各々の駒が各々の特性に従って動き、結果的に一本の流れを作る。
…なにかに似ていることにお気づきだろうか?
ルーブ・ゴールドバーグ・マシン(ピタゴラスイッチ)である。
見ていて飽きないし面白いけど、感動に心を震わせる種類のものではない。
「すごく良かった!」と言いつつも、DVDではなく「サントラを買った!」と息巻く松田は、完全にどこかズレてます。
3,000円以上のお金を出して2回も見に行った挙句、結局なにも“観て”はいないのです。
…そうか、逆か。
ちゃんと“観て”ないから「おすすめ!」なのか。
でべ | 簡易評価: まあまあ | 見た日: 2010年03月10日 | 見た回数: 1回
※先に言いわけ。柴田がコメントをアップしたというのは聞いていましたが、あえて読む前に書いています。
面白かった。
けど「時をかける少女」のほうが好き。
理由はひとつではないけど、まず、ウェブ上の仮想世界「OZ」がオバチャンにはピンとこなかったの。「現実の世界を管理するほど発達したバーチャルコミュニティー」なんて、映画にはよくある設定で、理解はできるんだけど、今回は「現実の世界(夏希たちの世界ね)」があまりにわたしが生きている世界に近すぎて、逆に「OZ」をリアルに受け入れられなかった。これが近い未来のとある世界での(もしくはアメリカでの)物語だったら、きっと違和感なく入り込めたんだろうけど。
携帯電話やニンテンドーDSや高校の部室のコンピュータで日常的に「OZ」にアクセスして、遊びも実用もそこですべて完結させる、それって規模の大きいミクシィでしかないじゃん。でもどうやら「OZ」はわたしが思う以上の支配力を持っていて、世界を動かすたくさんのシステムが「OZ」に依存しているらしい、のだけど、本当に、あなたたち、それがないと、困るの?
現実世界がリアルなぶん、「OZ」のファンタジー過ぎて上手く消化できなかったので残念。トシのせいかしら。
さて、いいところも挙げておかないと。
オタクを語るほど知識も度胸もないけれど、監督はもうたまらんくらいある種の「コダワリ」の持ち主なんだろうと想像する。ただしこの人のすごいところは遺憾なく完璧にその「コダワリ」を発揮するくせに、鑑賞者には一切それを押し付けないことである。もしくは押し付けないことも含めて「コダワリ」というか。
「時をかける少女」をみた時にも思ったけど、私はこの10年くらいあんなに軽やかな女子高校生をみたことない。美化しない、批判しない。90年代に「女子高校生」が「女子高生」になって以来、女子高校生はキャラクター化され、もてはやされ続けてきた。茶髪、ルーズソックス、短いスカート、たくさんの流行語、その他いろいろ。
物語のなかに女子高校生を登場させるとき、それは彼女たちを馬鹿にするか、批判するか、もしくは派手にふるまう彼女たちの悩みや真面目さを捉えようとするか、または社会学調査のようにただただ彼女たちを追いかけるか、そのどれか。ある固定のイメージが存在するぶん、それを踏襲するか覆すかを意識的に決めないといけない。それが制作者の意図として鑑賞者に届けられる。
でも「時をかける少女」の真琴はそのどれにも当てはまらない、健康的な軽やかさがあった。古臭くもなく「イマドキ」の女子高生のようなのにいやらしさがまったくない。あの「女子高生」を見なくて済むだけで気持ちが疲れずに済む。だからといって真琴は品行方正なつまらない人間ではないし、こびた人間でもない。
この作品にも「女子高生」のような、ありきたりで使い古されたアイコンが使われている。「ネット上の仮想世界」と「田舎の旧家の大家族」、どちらも説教くさくなりがちな素材。けど今回もそれらを批判でも美化でもなく淡々と軽やかに描いている、と思う。鼻高々に最後に「ほーらね」と言われないのでスッキリ爽やか。
説教くさいのが好きな日本のアニメ界にとっては特殊な存在かと。これからも軽やかな作品を作り続けてほしいもんです。
思い出したので追記。
恋はじまっていらーん。「時をかける少女」ではそれを上手いこと回避していたから身をよじる気持ちよさがあったのにー。チューはんたーい。
松田馨 | 簡易評価: おすすめ | 見た日: 2009年08月17日 | 見た回数: 2回
すごく良かった!
もう1回見に行きたい!
と思っていたらほんとにもう1回見に行ってしまった。
やっぱりすごく良かった。
サントラも買ってしまいました。うしししし
金 克美 | 簡易評価: おすすめ | 見た日: 2009年08月17日 | 見た回数: 1回
コメントはハルです。
サマーウォーズは結構前に見たけれど、
今もずっと心のなかに染みている映画です!
個人的にすきなのは「オズ」ですヾ(●´Д`)ノ
あんなにキャラクターがかわいくて、色々遊べるとこもあるし、全国の人とチャットもできて(゚∀゚)
あんなに素敵なサイト、私なら一発で中毒
さらにパソコンの前から離れられなくなります
それにカズマくんがかっこよかった!(゚∀゚)!
まぁこれは私のタイプとして
ストーリーも、
映画を見ていてスーっと入って来る感じでした
もう一度見たいなぁ・・・
泣けて笑えて癒されて
今まで見て来たアニメ映画のなかで
いちっばんよかったですo┤*´Д`*├o
印象悪くないわりに、全然印象に残っていない琴がのちにわかったこの作品。主人公が自分の名前と一緒なのに、それすらも忘却の彼方ヘー。だったので、改めての視聴。
やっぱり普通に楽しめましたよ。基本的には初回に見たときと同じような印象(そりゃそうか。見たときのこと覚えてないんだもん)なので、ほぼ書くこともない。んですが、2度目の視聴でわかったこと。わからんかったことなど。
まず、ヒロインのなつきちゃんがちょっとうっとおしいくて気持ち悪いぞ。と言うところはわからんではない。確かに下のコメントで書かれているように、そんなヒロインあかんやろ。ひくやろ。と言うのはわかりました。
初回以上に、ん?なんだこりゃ。と身じろぎさせるオープニングのヒロイン登場シーン。また、涙が止まらなかったりしちゃう(僕じゃないですよ。なつきちゃんが)シーンなど、やることがちょっとねぇ。学園1の美人ってのは、そういうようになっていくのが定められているんでしょうかね?
あとはそうだなー。やっぱり初回の感想と変わらないかな。新たな発見は(前回のストックがゼロに等しいってこともあるんですが)特にはないか。
改めてばあちゃんの存在感を実感。うーん。おしい。おばあちゃんが死んでからのくだりをハツって、ラストのいいシーンをあの手紙を読む。見たいな話だったらさらに良かったのかもしれない。けど、それだと盛り上がりに欠ける?
と言うことで、やはり「うぉー、サマーウォーズサイコー!!」と言う印象は受けないけど、それでも楽しめた一本でした。
では、そもそもなんでそこまで内容がすっぽり頭から抜け落ちたかですね。うーん。わかりません。1月後内容聞かれたらなんか覚えているかな?