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柴田宣史 | 簡易評価: おすすめ | 見た日: 2010年09月11日 | 見た回数: とてもたくさん
この映画は雨で始まる。
主人公エドワード・D・ウッド・ジュニア、通称エド・ウッドは、最初は映画を作っておらず、舞台の演出をしている。
でも「映画を作りたい」とずっと思っている。
僕たちの年齢になると、誰でも知っているのだが、好きだからといって上手なわけではないし、好きだからといって報われるわけではない。だから「好き」という言葉は少し切ないのだ。
切なさというのは概して苦しいもので、僕の奥さん、のぐちはこの苦しさに耐えられない。きっと彼女はこの映画が雨から始まり、雨で終わることにも耐えられないと思う。
僕?
僕もじつは耐えられない。この映画を見た後、エド・ウッド監督作品を見たのだが、ほんとうにひどくて、それもつらかった。ティム・バートンの劇中劇として出てくる、エド・ウッド作品は役者も演出もよすぎて、まったく比較にならない。
* * *
むかしは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドクとマーティの関係が不思議だった。君たちどこに接点があったのよ、と。本作でもベラ・ルゴシとエド・ウッドの関係は不思議だ。でも、大学でユズルさんという友人を得て、いまではこの関係を僕なりに理解できる。
ユズルさんの名誉にかけて言うけど、けっしてユズルさんはドクのようでも、ベラのようでもない。ただ、関係を理解する糸口としてわかるというだけのこと。
マーティにはドクとつきあう上で、下心はないだろう。でも、エド・ウッドにはある。元スターのベラを自分のキャリアに利用したいのだ。しかし材料がマズい。枯れすぎていて踏み台としてまったく使い物にならない。
下心のある人間がすなわち悪人ではない、ベラとの付き合いは、純粋な友情としても育っていく。
エド・ウッドは、なんとか映画を作り続けるが、あまりにもしょうもない作品で、同棲していたガールフレンドには愛想を尽かされる。
ベラもモルヒネ中毒で入院をし、なぜだかエド・ウッドはとばっちりで入院の手続きなんかも受け持ったりする。
すぐにベラが死んでしまいますが、まあ、この親切のおかげで女装癖さえも許容してくれる夢の女性と出会えたのは、せめてもの救いなのでしょう。
それにしてもエド・ウッドはひどい。映画を撮るためだったら、故人でも平気で材料にする。喪もあけきらぬうちにベラを出汁に映画を撮り始める。
それもひどい映画。
セットもひどいがストーリーもひどい。監督がひどいのは言うに及ばずだが、なにしろ丁寧に作ろうという心遣いが感じられない。
いったい、君は映画を作るのが本当に好きなのか?
……いや、好きなのだ。とっても、痛いほどに、好きなのがよくわかるのだ。
映画は、ぼろぼろのエド・ウッドの人生を象徴するように雨で終わる。
エド・ウッド:結婚しよう キャシー:でも、雨が…… エド・ウッド:大丈夫、きっとその角を曲がれば雨もあがるさ!
ここで映画は終わり、登場人物たちの後日談がテロップで流れる。 そして、エド・ウッドの雨が上がらなかったことがわかる。
やっぱり、僕もこの切なさに耐えられない。
でも、耐えられなくていいのでしょう。僕は奥さんが「この映画キライ」というのを、何度も聞いて確認をし、何回聞いても、ちょっと嬉しいようなくすぐったい気持ちになります。それはきっと彼女には、この映画の意味が分かっているからなのです。
僕も、きっとわかっていると思うのです。しかし、なんででしょうね。僕はこの映画が大好きで、そりゃあたくさん見ているのです。
映画部に書いてみたら何かわかるかと思ったのですが、よくわからんもんですね。
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この映画は雨で始まる。
主人公エドワード・D・ウッド・ジュニア、通称エド・ウッドは、最初は映画を作っておらず、舞台の演出をしている。
でも「映画を作りたい」とずっと思っている。
僕たちの年齢になると、誰でも知っているのだが、好きだからといって上手なわけではないし、好きだからといって報われるわけではない。だから「好き」という言葉は少し切ないのだ。
切なさというのは概して苦しいもので、僕の奥さん、のぐちはこの苦しさに耐えられない。きっと彼女はこの映画が雨から始まり、雨で終わることにも耐えられないと思う。
僕?
僕もじつは耐えられない。この映画を見た後、エド・ウッド監督作品を見たのだが、ほんとうにひどくて、それもつらかった。ティム・バートンの劇中劇として出てくる、エド・ウッド作品は役者も演出もよすぎて、まったく比較にならない。
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むかしは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドクとマーティの関係が不思議だった。君たちどこに接点があったのよ、と。本作でもベラ・ルゴシとエド・ウッドの関係は不思議だ。でも、大学でユズルさんという友人を得て、いまではこの関係を僕なりに理解できる。
ユズルさんの名誉にかけて言うけど、けっしてユズルさんはドクのようでも、ベラのようでもない。ただ、関係を理解する糸口としてわかるというだけのこと。
マーティにはドクとつきあう上で、下心はないだろう。でも、エド・ウッドにはある。元スターのベラを自分のキャリアに利用したいのだ。しかし材料がマズい。枯れすぎていて踏み台としてまったく使い物にならない。
下心のある人間がすなわち悪人ではない、ベラとの付き合いは、純粋な友情としても育っていく。
* * *
エド・ウッドは、なんとか映画を作り続けるが、あまりにもしょうもない作品で、同棲していたガールフレンドには愛想を尽かされる。
ベラもモルヒネ中毒で入院をし、なぜだかエド・ウッドはとばっちりで入院の手続きなんかも受け持ったりする。
すぐにベラが死んでしまいますが、まあ、この親切のおかげで女装癖さえも許容してくれる夢の女性と出会えたのは、せめてもの救いなのでしょう。
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それにしてもエド・ウッドはひどい。映画を撮るためだったら、故人でも平気で材料にする。喪もあけきらぬうちにベラを出汁に映画を撮り始める。
それもひどい映画。
セットもひどいがストーリーもひどい。監督がひどいのは言うに及ばずだが、なにしろ丁寧に作ろうという心遣いが感じられない。
いったい、君は映画を作るのが本当に好きなのか?
……いや、好きなのだ。とっても、痛いほどに、好きなのがよくわかるのだ。
* * *
映画は、ぼろぼろのエド・ウッドの人生を象徴するように雨で終わる。
ここで映画は終わり、登場人物たちの後日談がテロップで流れる。
そして、エド・ウッドの雨が上がらなかったことがわかる。
やっぱり、僕もこの切なさに耐えられない。
でも、耐えられなくていいのでしょう。僕は奥さんが「この映画キライ」というのを、何度も聞いて確認をし、何回聞いても、ちょっと嬉しいようなくすぐったい気持ちになります。それはきっと彼女には、この映画の意味が分かっているからなのです。
僕も、きっとわかっていると思うのです。しかし、なんででしょうね。僕はこの映画が大好きで、そりゃあたくさん見ているのです。
映画部に書いてみたら何かわかるかと思ったのですが、よくわからんもんですね。