それいけ!アンパンマン シャボン玉のプルン

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監督:矢野博之
出演:戸田恵子、中尾隆聖、増岡弘、佐久間レイ、水野真紀
時間:50分
公開:2007年
ジャンル:
アニメ(日本)ファミリー

コメント一覧

石田憲司 | 簡易評価: いまいち | 見た日: 2012年05月13日 | 見た回数: 2回

まー、前ほど毛嫌いせずに見れたんですが、別段やっぱり面白くはないかなぁ。今回はそんなにまじめに見てないんですがね。

子どもらはえらく爆笑したりしてましたが、個人的にはやっぱり別段評価がかわる事もないかな。ま、「フツー」な評価でもいいっちゃいいんですが。

つくづく冒頭のアンパンマンが雲を突き抜けて・・・のシーンはかっちょいいなぁ。

石田憲司 | 簡易評価: いまいち | 見た日: 2010年01月16日 | 見た回数: 1回

柴田さんのコメントを読んで、なるべく教育方針やら、イデオロギーやらをなるべく考慮に入れずに見ようと心に決めて挑んだのですが、やはり若干は影響されちゃうのかなー。

ただ、それらをさっ引いたとしても全体的なストーリーがつまらないなぁ。おぉ、って思ったのは、オープニングで、ばいきんまんが意地悪しにきた時、学校のみんなが「アンパンマーン!」と助けを求めたら、“ぶしゅー”っと雲を突き破ってアンパンマンが颯爽と現れるシーン。

だけか。うーん。

それいけ!アンパンマン 妖精リンリンのひみつ」と同様にオールスターキャストでお届けしてくれているし、ばいきんまんも負けじと新型メカを駆使して追いつめるわけですが見たいのはやはり「アンパンマンvsばいきんまん」なわけで、別段の「あんぱんち」が見たいわけじゃないのだよ。
プルンにフォーカスがあたりすぎてるのが原因かもしれませんが、プルンが頑張りすぎてばいきんまんをやっつけすぎると、見所半減以下ですがな。

ということで、まぁ、目くじら立てるほど悪いわけじゃないけど、やっぱりちょっと面白くなかったです。
「自信を持って!」とか「あきらめないで!」とか「あなたはすごいのよ!」とかそんなのに共感できるともうちょい楽しめたかもしれませんが、うーん。やっぱりなんか引きずられてる?

柴田宣史 | 簡易評価: ざんねん | 見た日: 2009年08月02日 | 見た回数: 2回

過日、「崖の上のポニョ」について、石田さんとでべちゃんと話したとき、「説教臭い話」という話題があった。いわく、スタジオジブリの作品だと「となりのトトロ」には説教臭さがないが、「もののけ姫」にはかんじるのだそうだ。そういいいたくなる気持ちはわからないではない。でも、なんども映画部で書いているけど、映画というのは作られて半分、見られてようやく完成で、まさにこの「説教臭い」部分は視聴の場に立ち上がってくる観点であることを強調したい。

たとえばポニョだと、冒頭部分で、海底のヘドロにまみれて食器洗剤の容器などが巻き上げられるシーンがある。あのシーンの意味は何だろうか? 「こんなにも海を汚してしまっている現代人の罪深さを表現」したのだろうか? あるいは後に語られる「デボン紀のような海を描くための対比」だろうか? 原作者の意図は本人に尋ねればわかるので、もしかしたら答え合わせもできるのだが、原作者の意図を超えて、「現代人の罪深さ」を読み取る人がいることはまったく不思議でないし、それを「間違った読み方だ」と断じることができる人もいないだろう(くれぐれも、これはでべちゃんや石田さんが「ポニョは説教臭い」といった訳ではないですよ。ただの読み取りの思考実験です)。要は読み取る際には、読み取る側のコンテクストが介在するということなのだ。痛いところを突かれれば人は不快になるし、できていないことを指摘されればやはり面白くない、物語から説教臭さを読み取るということは、じつは読み取る側の文脈が大変な仕事をしているのだ。

はやくアンパンマンの話をしろよ、というところですが、まだもうちょっと。

上述の通り、読み取る側のもつバイアスは非常に強く、どんな物語でもポジティブにもネガティブにも読み取れるが、たとえば最近みたところの「アストロノーツ・ファーマー / 庭から昇ったロケット雲」なんか、どうしようもなくべったべたに一つのことを伝えたくて仕方がなく、そういう作りになっているので、恣意的な読み取りは難しくなってしまっている。転じて、僕はさんざんこき下ろしているが「バベル」の場合だと、わりとオープンな作りになっていて、「アストロノーツ・ファーマー」が、視聴者に何もゆだねない作りになっているのに対して、「バベル」は読み取りの余地がある映画だと思う。これは映画とうまくチャネリングできるかどうかの問題なので、どちらが優れた映画であるという訳ではないが、でも、「アンパンマン」は、前者──読み取りの余地のない話であって、しかもそれはきわめてイデオロギー的なのだ。そしてあえて丁寧に書くが、その「アンパンマン」の持つ思想はまったく賛成したいものではない。

「ポニョ」は、僕にいわせれば、徹頭徹尾エンターテイメントであって、子供に見せる質の良いホラ話だ。しかし「アンパンマン」は違う。今回のキーパーソンのプルンは、シャボン玉ガールズの一人で、シャボン玉と音楽が同時に出る笛の使い手だ。その笛はどうやら練習量に比例して、大きなシャボン玉が出るらしいが、なぜかプルンは大きなシャボン玉を吹くことができない。では、練習をしていないのかといえば、そうではなく陰でこっそり熱心に練習をしている。アンパンマンとクリームパンダはその様子を知っているし、また作品では、シャボン玉が小さいのは練習量の不足でなく、プルンの個性であると主張をする。しかしプルンは自信がない(自分を信じることができない)ので、シャボン玉ガールズを出奔する(というかアクシデントで、バイキンマンに追い出される)。で、最後には自信を持って、アンパンマンたちの危機を救い、バイキンマンを打ち倒す。

なんなんだ、それは。

そんなに子供たちは「自分を信じ」なきゃいけないのか?
なんでそんなにしつこくそれを教え込もうとするのだ?
子供たちにほかに言いたいことはないのか?

ポニョとの対比で書いているので、くりかえしポニョを持ち出すが、まさしく「神経症の時代にためらわずに」ポニョが描かれたのに対して、オウム真理教の時代を追認するべくアンパンマンが描かれていると言いたい。こんな映画、ほとんどオウム真理教の洗脳用ヘッドセットみたいなものだ。

僕が幼い頃に読んでいた絵本で繰り返し読んでいたのは、トミー・ウンゲラーの「ゼラルダと人喰い鬼」という本だったのを思い出すが、その本はいわば罰当たりな本で、人喰い鬼がゼラルダの作るおいしい料理で人食いをやめ、その料理を作った彼女と結婚し、子供をもうける話だ。話の途中に出てくる料理の数々が非常に魅力的なのだが、なにはともあれ最後のページがいいのだ。ゼラルダは人喰い鬼と結婚をし、子供を二人育てている。そこにもう一人赤ちゃんが生まれて、ゼラルダと人喰い鬼が赤ちゃんをだっこしている。先に生まれた子供たちは、さあ赤ちゃんを食ってやるといわんばかりに、後ろ手にフォークとナイフを隠し持っている。ブラックユーモアに満ちたラストだが、そこまで読んでいれば、この子供たちが将来赤ちゃんを食べてしまうことなどあり得ないことは想像に難くないし、かえって、この罰当たりさ加減が非常に心地よい作りになっている。僕にいわせると、ポニョはそういう作品なのだ。説教を超越したただのエンターテイメント。僕は子供とそういう作品をたくさん見たいが、アンパンマンをみるに、どうも世間の思惑というのは、違うようで、こんなに本質的に違うアンパンマンもポニョも同じ「子供向け作品」なのだ。まったくやってられないぜ。

でも、これを言わないわけにはいかないので、書き添えますが、絵本のアンパンマンは決して、子供に見せたくない話ではありません。説教臭くはありますが、他の人がいわないことをちゃんと言っているいい絵本です。

とにかく、ジブリ(とピクサー)は、もっと映画を作ってほしいです。こんな「子供向け」映画がはびこる世界で、子供と映画を見るのはつらいです。

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