ファイト・クラブ Fight Club

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監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:ブラッド・ピット、エドワード・ノートン、ヘレナ・ボナム=カーター
時間:139分
公開:1999年
ジャンル:
ドラマ

コメント一覧

柴田宣史 | 簡易評価: おすすめ | 見た日: 2010年08月28日 | 見た回数: たくさん

中古DVD屋さんでなんと180円で売っていたので、びっくりして反射的に購入。娘と一緒に見たが、それなりに食いつきがよく満足。

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こないだでべちゃんに借りた松田行正の『眼の冒険』という本では、「シックス・センス」は、よい作品であるが故に数多くのエピゴーネンを産んだが、ファイト・クラブもそのうちの一つだ、といっておられました。

そのあとのシャマラン作品はさておき「シックス・センス」がいい映画であることに異論はありません。でも、本作をエピゴーネン呼ばわりするにあたっては、わかってないなあ、と申し上げたい(ただ、この本、そんなにいちゃもんをつけたくなる本ではなく、この部分だけそのように覚えているだけなので、あしからず)。

断言しますが、ファイト・クラブの本質は、主人公が実在的な自分を取り戻すことにあります。けっして、タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)が、ほんとは自分だったんだスゲー、というのが本質の映画ではないのです。

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主人公《僕(エンドロールでは「ナレータ」)》は、現実と自分との間にもやがかかっているような感覚を持っています。言い換えれば、自分は自分を演じているのであって、自分を生きているのではないのです。

「自分を生きる」って? それはどのように実感されるのか?

それは「他者との接触」によって、自分の輪郭を知るのです。本当はその輪郭というのは社会的輪郭とあえていうべきかもしれません。「自分でないものがこの先にあるから、故にここまでは自分だな」という感覚によって輪郭をつかむのです(似たようなロジックを「キスへのプレリュード」でも展開していますが、連続自殺未遂者が、自殺未遂によって自分の生を実感するということと基本的なロジックは同じです)。

現代社会においては、逸脱者は生きにくくなっています。ゆえに逸脱しないように、周囲を慮って生きていく人たちに囲まれ、自分自身も周囲を慮るため、「どこまでいったら自分でないものにぶちあたるか知る」というのは恐るべきことなので、その手前くらいでやめてしまうのです。

そうやって手足を引っ込めながら生きるのですが、ほんとうは自由にのばしたいものを無理矢理引っ込めていては病気になってしまいます。ずっと演じていては疲れてしまいます。

では、そういう《僕》はどのように自分を生きることを実感するのか。それは自分の中からわき起こってくる、しかし演じる自分では抗えないほどの強い感情に襲われることによって、自分が確かに間違いなく生きていることを、自己実現を実感するのです。ゆえに《僕》は、泣きにいくのです。

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マーラ・シンガーは明快な存在に思えるかもしれません。主人公と同じく、体はどこも悪くないのに、余命幾ばくもない病人や、同病相哀れむ会合に出席することで、「お前は偽物だ」と、主人公に突きつける存在。

でも、なかなか難しい。

そういった会合に出席しても、主人公と違って泣く訳でもなく、ただ無愛想に煙草を吸う。道徳観念もなく、コインランドリーで盗んだ服を古着屋に流してしまうような女。単純に《僕》の「嫌なところ」を抜き出しただけの存在ではないでしょ?

こんなふうに書くと、非常に平板なのは大いに認めますが、彼女の存在はあえて言えば、殴り合う《僕》が、性においても存在し合う相手を見つける、ということだと思うのです。

そして「お前は偽物だ」と突きつけるような存在は、つまりは強烈な《僕》の本質についての理解者です。本質を知った上で愛してくれる存在というのは、言うまでもなく得難い存在です。ラストシーンでは、《僕》はそこに気がつくのです。

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泣くことによって《僕》は当座の危機を回避しますが、この段階では《僕》にとっては、まだ問題は本質的には解決していません。それくらい《僕》はこれまでの人生を演じすぎているのです。もっと、《演技する僕》を凌駕するような、強烈で内発的(自分産と言い換えてもいい)な感情や感覚と向き合う必要があるのです。そういった感情の中に間違いなくあると言えるもの一つが「痛み」です。

地下のファイト・クラブにひきつけられる男たちは、だれも憎しみでは相手を殴りません。唯一、嫉妬に駆られて相手を殴るのは、殴り合うことで自己実現を達成する目標を見失った《僕》だけです。この風景の後味の悪さは、いうまでもなく、気持ちのよい殴り合いでなければ、それがただの暴力であれば、それは不快なものにすぎない、ということです。

自分の肉体的な体は本気で動きたくてうずうずしています。自由にのばしたかったのを今まで抑圧してきたからです。そしてその伸ばした手でもって、「反応のある他者(他我)」を一所懸命に捜すのです。故に殴られることさえも喜びなのです。

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デイビッド・リースマン『孤独な群衆』(加藤秀俊訳, p.133)では、

他者指向的な人間というものは、自分を頼りない人間だと考えるものであるが、その結果としてかれは、「無努力崇拝」とでもいうべきものを生活の様々な領域で探し始める。たとえば、かれはかれの経済的な役割だの、家庭生活だのと単調なくりかえしにすることを好む。

とあり、これはまさに作中の、

高いソファを買う、これで一生どんなソファを買ったらいいかで悩む必要がなくなる、そう思っていた

と符合します。

リースマンはこの本で、他者指向的な人間が、伝統指向、内部指向を経てこの段階にいるということから、他者指向的な人間の出す回答にこそ、これからの社会的存在としての人間のありようが描き出されるのでは、と期待を込めて書いていますが、本書が世に出た1960年から40年以上経ったファイト・クラブの世界において、さまざまな他者指向的特徴を持つ《僕》は、じつは残念ながら回答をもっていません。

むしろ前近代を飛び越えて、プリミティブな人間関係と、やや安直な現代社会の否定(クレジットカード会社の爆破や物質文明の否定)までさかのぼるくらいのことしか思いつきません。そういったもの(物質文明)が、単純によいものでないことは、誰でもわかることです。つまり短絡的なのです。

リースマンは注意深く、「他者指向的な人間がすなわち一概に劣った存在ではない」と言っていますが、いわゆる「自律的な人間」が他者指向的であることを自覚するのでなければ、《僕=タイラー・ダーデン》のような解決にいたるのは無理からぬことと言えるのかもしれません。しかし、タイラー・ダーデンを、明示的に《僕》が殺すのは、安直で短絡的な現代社会の否定が「回答でない」ことを示唆するのです。

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非常に僕らしく、非常に理屈っぽいことを書き並べましたが、僕がこの映画に感動をさせられたのは、僕自身の人生との符合を感じてしまうからです。

演じる僕、現実感のない現実、不眠症的非充実感。

最初の命題に戻りますが、主人公が自分の実在を取り戻すということは、他者が存在する世界に自分の存在を認めることに他ならないのです。

僕にとっては、大学で、本を読み、ものを書くことで、「他者の存在」を実感する機会に恵まれましたが、書かれた本こそ他者の繰り出す拳で、自分の書いた物は、いわば僕がそれまで引っ込めてきた手なのです。

そして、この映画を見て「自分の物語だ」と思う人は、きっとたくさんいるだろう、と強く思うのです。

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