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尾内丞二 | 簡易評価: おすすめ | 見た日: 2011年07月07日 | 見た回数: とてもたくさん
“恐怖を感じる境界”というのはなかなか難しい。
ストーカー犯罪を例に挙げれば判りやすいが、付け回される本人が『嫌だ』と思わなければ、それは恐怖でもなんでもない。 職場の前で何時間も待ってたとか、誰にも話していなかった“昔欲しかったオモチャ”を誕生日に贈るなどの行動でさえも、相手に好意を持ってさえいれば情熱的な愛情表現と解釈ができる。
しかし“自分がそれを望んでいない”という、ただそれだけのボーダーを越えた途端、それは『常軌を逸した行為』に変貌する。
この映画で取り上げられるモチーフはもちろん“ゲーム”である。
ゲームはそれがボードゲームだろうとビデオゲームだろうと、誰でも熱中して楽しむ事が出来る。 …しかし当然ながら、その『お遊び』が娯楽の範囲に収まっていられるのは現在の自分に影響がなく、かつ、ゲームの勝敗でお遊びが終了するという前提条件が守られている間だけである。
本作の主人公はふとしたきっかけで現実世界での“アドベンチャーゲーム”を始めるのだが、しばらく経ってから『そのゲームを止めさせてもらえない』という事に気づく。 いつでも自由に止められると思っていたゲームを目的も判らないままに強制的に続行させられることで、彼は恐怖の境界をまたいでしまう。
警察や弁護士に助けを求めても一切が空振りに終わり、仕掛け人たちは休むことなく執拗にイタズラを仕掛けてくる。
怒涛のクライマックスの後は、思い切りシニカルだけど非常に清々しいハッピーエンド。 仕掛け人たちの子供じみた乱暴なイタズラも、小道具や細かい配慮の隅々にエスプリの効いた趣味の良さがあり、見ていて惚れ惚れしてしまう。 ともすれば安っぽいサスペンスになりそうなのに、どっしりと重みのある冷徹な高級感とグラフィティーアートのような狂気に満ちた乱暴な整合性が、この映画にB級サスペンスとは異なる一線を画している。
「セブン」の図書館のシーンでも似たような感覚を覚えるやり取りがあったが、こういうシニカルな演出にかけてはデヴィッド・フィンチャーはピカイチ。
顔も見たくないほどショーン・ペンが嫌いな柴田にも、是非ともじっくり見直していただきたい。
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“恐怖を感じる境界”というのはなかなか難しい。
ストーカー犯罪を例に挙げれば判りやすいが、付け回される本人が『嫌だ』と思わなければ、それは恐怖でもなんでもない。
職場の前で何時間も待ってたとか、誰にも話していなかった“昔欲しかったオモチャ”を誕生日に贈るなどの行動でさえも、相手に好意を持ってさえいれば情熱的な愛情表現と解釈ができる。
しかし“自分がそれを望んでいない”という、ただそれだけのボーダーを越えた途端、それは『常軌を逸した行為』に変貌する。
この映画で取り上げられるモチーフはもちろん“ゲーム”である。
ゲームはそれがボードゲームだろうとビデオゲームだろうと、誰でも熱中して楽しむ事が出来る。
…しかし当然ながら、その『お遊び』が娯楽の範囲に収まっていられるのは現在の自分に影響がなく、かつ、ゲームの勝敗でお遊びが終了するという前提条件が守られている間だけである。
本作の主人公はふとしたきっかけで現実世界での“アドベンチャーゲーム”を始めるのだが、しばらく経ってから『そのゲームを止めさせてもらえない』という事に気づく。
いつでも自由に止められると思っていたゲームを目的も判らないままに強制的に続行させられることで、彼は恐怖の境界をまたいでしまう。
警察や弁護士に助けを求めても一切が空振りに終わり、仕掛け人たちは休むことなく執拗にイタズラを仕掛けてくる。
怒涛のクライマックスの後は、思い切りシニカルだけど非常に清々しいハッピーエンド。
仕掛け人たちの子供じみた乱暴なイタズラも、小道具や細かい配慮の隅々にエスプリの効いた趣味の良さがあり、見ていて惚れ惚れしてしまう。
ともすれば安っぽいサスペンスになりそうなのに、どっしりと重みのある冷徹な高級感とグラフィティーアートのような狂気に満ちた乱暴な整合性が、この映画にB級サスペンスとは異なる一線を画している。
「セブン」の図書館のシーンでも似たような感覚を覚えるやり取りがあったが、こういうシニカルな演出にかけてはデヴィッド・フィンチャーはピカイチ。
顔も見たくないほどショーン・ペンが嫌いな柴田にも、是非ともじっくり見直していただきたい。