桐島、部活やめるってよ
画像表示切り替え監督: | 吉田大八 |
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出演: | 神木隆之介、橋本愛、大後寿々花 |
時間: | 103分 |
公開: | 2012年 |
キャッチコピー: 全員、他人事じゃない。 | |
ジャンル: 青春、ドラマ |
コメント一覧
尾内丞二 | 簡易評価: おすすめ | 見た日: | 見た回数: 1回
石田憲司 | 簡易評価: おすすめ | 見た日: 2016年05月12日 | 見た回数: 1回
「時をかける少女」(アニメ版)を見た時に、なんだろう、こんな体験していないにもかかわらず妙に実感のある高校生生活は・・・と思ったものですが、今作は逆に、実にリアルなのに初めて見る世界な感じがプンプンしててそれはそれで不思議でした。
まぁ、高校の時なんて部活しに学校に行ってたみたいな僕なので、正直帰宅部の方々や文化部の方々が学校終わりに何してたか、どんなことを考えてたのか、なんてわかるわけがない。というか、同じように何かそれだけに集中してるに違いない。と当時の僕は深くも考えずにただ思ってたフシがありますね。
だって放課後の接点と行ったら同じグランドをシェアしてる野球部にラグビー部。あと、隅っこで陸上部??ほら、基本おんなじような思考回路で動いてそうな感じがするでしょ?
ということで自分のことだけ書いてますが、いや、それはそれで面白かったですよ。
ボール借りてきて裏でバスケやってるとこなんかも若干昼休みに体育館に忍び込んでバスケしてた僕らからすると(スラムダンク全盛期だったんでね)妙に親近感もわくし、運動部に対する文化部の劣等感的なもの(逆に居うと運動部の優越感的なもの)や、途中の映画部vs吹奏楽部のどっちが上位なのか・・・みたいなとこも面白かった。あと、実はバトミントン部の子の隠れた熱血具合いも悪くはないですしね。
いやいや、話の展開はアクロバチックなところなんて全然なくって、それこそ柴田さんの言うように、世界の一部を切り取っただけですが、出てこない桐島くんの存在を中心に1週間位の学校生活を追体験した感じも味わえました。懐かしくも目新しくもあって、とっても印象深い一本でしたぜ。
柴田宣史 | 簡易評価: なかなか | 見た日: 2014年03月27日 | 見た回数: 1回
映画になってるからね、「解釈を排した」とは言えないんだけど、でも「解釈を人に委ねよう」という作りなんだと思う。現象学的といえば現象学的か。ドグサ(臆見)を減らした、描写そのものが何かを表していると感じさせてくれるいい映画でした。
野暮を承知で、その「何か」を言葉にすると、「青春とは何も解決しないことだ」という印象が僕にはあり、本作のように、起承転結がある訳でなく、ただ、ある世界を切り取っただけの映画の手法との符合も感じて面白かったです。
青春時代の焦燥感は解決されることに意味があるのでなく、経験されることに意味がある、というと、なんかおじさんみたい :-P
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そうそう、映画の本質とは全く関係ないんですが、前田くんの「先生はロメロをみたことがないんですか!?」というのよかったな。
この映画のキャッチコピーは『全員、他人事じゃない。』なんですね。
面白いことに僕が本作を観た最初の印象は『全員、他人事。』でした。生徒たちは様々な思春期の問題に直面しつつも、自分のことを他人事のように受け取っていると感じるからです。
怒るのも悲しむのも『そうすべきだからそうする』といった不気味で条件反射的な感情表現に見える。
僕が犬の散歩をしていると、ときどき小学生くらいの女の子が「あ、イヌ可愛い!」とか叫ぶのですが、ちょうどそれと良く似ています。
この学校の生徒は全員、そういう条件反射で動くゾンビのようなものなのです。
ただし、
・主人公の菊池
・野球部の先輩
・映画部の前田
の3人だけは例外です。
特に主人公の菊池は人生の無気力な局面にあり、自分のことも含めて万事を他人事として扱っていて、それによって逆にこの映画の中で唯一人間らしい登場人物になっています。
彼は学校の人気者の桐島(美味しい人間)を巡ってゾンビたちが右往左往していることに自分との温度差を感じ、よりいっそう自分の居るべき場所が分からなくなっていくのです。
次に注目すべきは野球部の先輩。
彼は菊池とは対照的に、他人のことまで自分のことのように捉えている人物です。
たいして野球が上手い訳でもないのに野球のことが好きで好きで、試合や練習にも全力で取り組んでいて、甲子園に予選落ちしても「ドラフトが終わるまでは…ね。」と笑う。
俳優さんの老け顔も手伝って、まるで妻子のために身を粉にして働く疲れた中年サラリーマンのように見えます。実際に存在する『格好いいひと』というのはこういう人のことを言うのですが、本作では最後までみじめな負け犬として描写されます。
しかし菊池にもその格好よさが分かっているから、この先輩が眩しく、またそうなれない自分が不甲斐ないのです。
そして最後に映画部の前田。
ひょっとしたら一番感情移入が容易い彼をこの物語の主人公だと感じる人もいるかもしれませんが、彼は物語を経験する人物ではなく、その他の登場人物とは違う視野で物語の世界を描写する“観察者”なので主人公ではありません。
彼は学校を舞台に、自主制作ゾンビ映画『生徒会オブ・ザ・デッド』を完成させようと頑張っており、その彼が物語の最後に菊池に言います。
「こうやって映画を撮っているとね、ときどき…本当にときどきなんだけど、自分の映画が本物の映画と繋がるときがあるんだよね。」
言うに及ばず学校は社会の縮小版であり、そこで起こることは社会に出ても起こり得る。
作者は登場人物が体験しているゾンビ映画(桐島を巡るゾンビたちの茶番)と本物のゾンビ映画(社会の荒波にもまれる茶番)が実は直結しているのだということを、前田を通して菊池に伝えたかったのです。
本作では、これらの複雑な要素を物語としてまとめながらも、映画としての演出も隅々まで行き届いています。
例えば屋上に押し寄せる生徒たちを菊池が目撃するカットは極端に深い被写界深度でなおかつスローモーションで撮影されていますが、これはどこからどうみても『ドーン・オブ・ザ・デッド』から始まる体育会系ゾンビ映画の手法です。
またこれは極めて注意深く見ていないと気づかないのですが、教室の前後が逆になっています。
日本の学校では右利きの生徒が多数のため、全ての校舎は生徒の左側に採光用の窓、右側に廊下が来るように設計されていますが、本作の教室はそれが全て逆になっているのです。
このことに実際に気がつかなくても、日本の義務教育を体験してきた者ならば『自分の知らない学校を見ている』という小さな不安を感じるはずで、その感情操作を物語の演出に利用しているわけです。
間違いなくおすすめの一本です。