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柴田宣史 | 簡易評価: なかなか | 見た日: 2023年12月01日 | 見た回数: 1回
監督を知らない状態で見たんだけど、冒頭のアダルト動画を見ながらうめいているシーンで、「あ、ダーレン・アロノフスキーっぽい」とおもったら、アタリ。途中の嘔吐のシーンでも、らしいと思ったんだけど、いや、別にそういうややびろうなシーンが多い、というより、びろうなシーンの描き方が「らしい」とかんじるのかな。
主要メンバの、娘の描写もそうとうリアルだと思う。
母親をして、「あれは邪悪な怪物だ」と言わせてしまう感じ、なんだかあれはあれでわかるんですよね。身内だからこそかもしれないけど、しみじみと親しいものを「邪悪」と断じてしまう感じ。心底、邪悪だと思っているし、でも、邪悪であってほしくないとも思っている。
転じて、8歳の娘を捨てて、また育児も放棄して、逐電した270Kgの父。彼は彼で数日内に死ぬにあたって、娘と会う。
その理由は、言葉だけ聞いていると利己的なもので、「自分が意味のあることを、善的なことを、一つでも為したと信じたい(=娘が善であってほしい)」というもの。
その父と娘の周辺に、アル中の母、若い伝道師、元カレの妹が、ぽつぽつと現れて、みなそれぞれ、いくらか不具合を抱えている。でもって、映画の終わりに向けて、それらの不具合は、周囲の許し(伝道師)であったり、状況の受容(元カレの妹)、わりと収まるところに収まっていく。
最後の、「ふわっ」とするの。「救い」のメタファのようで、そこには何かしらのポジティブさがある。
上述の「収まるところに収まっていく」感じと、でも、この「救いのように見える」なにかは、あんまり、うまいこと安っぽくない感じになってて不思議。
とっちらかってるけど、時間が経つと忘れちゃうので、とっちらかったまま書いておきます。
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監督を知らない状態で見たんだけど、冒頭のアダルト動画を見ながらうめいているシーンで、「あ、ダーレン・アロノフスキーっぽい」とおもったら、アタリ。途中の嘔吐のシーンでも、らしいと思ったんだけど、いや、別にそういうややびろうなシーンが多い、というより、びろうなシーンの描き方が「らしい」とかんじるのかな。
主要メンバの、娘の描写もそうとうリアルだと思う。
母親をして、「あれは邪悪な怪物だ」と言わせてしまう感じ、なんだかあれはあれでわかるんですよね。身内だからこそかもしれないけど、しみじみと親しいものを「邪悪」と断じてしまう感じ。心底、邪悪だと思っているし、でも、邪悪であってほしくないとも思っている。
転じて、8歳の娘を捨てて、また育児も放棄して、逐電した270Kgの父。彼は彼で数日内に死ぬにあたって、娘と会う。
その理由は、言葉だけ聞いていると利己的なもので、「自分が意味のあることを、善的なことを、一つでも為したと信じたい(=娘が善であってほしい)」というもの。
その父と娘の周辺に、アル中の母、若い伝道師、元カレの妹が、ぽつぽつと現れて、みなそれぞれ、いくらか不具合を抱えている。でもって、映画の終わりに向けて、それらの不具合は、周囲の許し(伝道師)であったり、状況の受容(元カレの妹)、わりと収まるところに収まっていく。
最後の、「ふわっ」とするの。「救い」のメタファのようで、そこには何かしらのポジティブさがある。
上述の「収まるところに収まっていく」感じと、でも、この「救いのように見える」なにかは、あんまり、うまいこと安っぽくない感じになってて不思議。
とっちらかってるけど、時間が経つと忘れちゃうので、とっちらかったまま書いておきます。