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柴田宣史 | 簡易評価: いまいち | 見た日: 2011年07月17日 | 見た回数: 1回
彩度も明度も色相の幅も抑え気味だけど、画面はとてもきれいです。でも、お話は何とも云い難い。
息子と南に向かうことに固執する父の物語。父は、自分たちは人間の尊厳を運んでいる、と息子にいい聞かせながら荒廃した世界で海岸を目指します。
この物語で描かれる一つ目のポイント──<母>は弱い存在で、荒廃した世界での出産を拒み、子供が育ってからも、こんな世界で生きていても苦しいから、子供と心中をしたい、と夫に訴えます。夫は、のらりくらりと明言を避けつつ、自殺はよくない、ということだけを妻に言い聞かせる。妻は、何年かは頑張ったのでしょう。しかし、お互い理解のできないまま関係は冷えてしまい、妻だけ自殺します。まずここがやや不気味なのです。
なにやら言葉にしがたい信念のある夫と、そういう信念のない妻。妻の死については、妻が非常に冷淡に夫を顧みないことで、視聴者の苦痛を減じているのかも知れませんが、この視聴者の苦痛はこの時点で明らかに二分されます。ひとつは<こんな冷たい奥さんなら死んでもよい>。もうひとつは<奥さんにそもそも賛成>という立場です。この二つの立場は後で再考したいので、とりあえずおいておきます。
……それにしてもシャーリーズ・セロンの無駄遣いだなあ。いやね、おいておくといっておいてなんですが、結局、ここでの妻というのは、<楽しいことのない世界だったら死んでしまおうよ>という快楽主義者的な描かれ方だと思うのですね。それが、<楽しくなくても義務というものがある>という立場の父と対比されている。
さて、この物語のもう一つのポイントは<銃>です。この銃は原則、自決用で、自殺した妻が二人のために残したものです。父もその銃を自決用としてとらえ、子供にはもしものときのために自決の方法を教えています。この父も<子供が強姦されたり、苦しんで食べられたりするくらいなら自殺した方がいい>と考えています。同時に、自分たちは南の海岸に人間の尊厳を運ばなければならない。故に危機に際しては、この自決用の銃を人に向けます。
<生きることをリタイアした妻>と<自分で先を切り開くための銃>が、非常に頻繁に登場するのです。それを登場させる主体は、<悩み迷いつつも信念を持つ父>です。なんというかですね、この映画の正体はたぶん「それいけ!アンパンマン シャボン玉のプルン」と同じく<信じろ映画>なような気がするのです。
信じるという行為には、疑惑がつきものです。知るということには疑惑はありません。氷が水に浮かぶということを、ひとは信じる必要がない(ただ知ればよい)けど、人間が共食いをしないことは善であるということは信じなければ、善悪を判定できません。人間の共食いについては、最近の映画だと「ドゥームズデイ」でも描かれていますが、超えてはならない一線として共有されています。人間以外で共食いをする生き物がいる世界で、人間は共食いをしないということはある種、人間が人間であることの証左なのかもしれませんが、過酷な状況に於いてやればできることをやらないためには、信念が必要です。
しかし、信じるということは、ある側面においては思考を停止させることです。くれぐれも人の共食いがいいと言ったり、死んだ妻が妥当だということを強く言いたい訳ではないのですが、誰もが信じるということが難しい中で、しかし信じなければならない、この苦行に向かう父を<妻><銃><息子>を通して描く訳です。
ちゅうわけで、まとめてみると、なんかこの保守的な雰囲気がぷんぷんするのがしんどい訳です。お話の中にはアイデアや発想というものは全くなく、荒廃した都市をうろうろする信念に基づく父をじーっと観察するだけの2時間です。
家族一同、非常に疲労した2時間だったのですが、冒頭に書いた通り、絵はずいぶんときれいでした。というわけで、いちおう残念評価ではないのですが、でも二度みることはなさそうだなあ。
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彩度も明度も色相の幅も抑え気味だけど、画面はとてもきれいです。でも、お話は何とも云い難い。
息子と南に向かうことに固執する父の物語。父は、自分たちは人間の尊厳を運んでいる、と息子にいい聞かせながら荒廃した世界で海岸を目指します。
この物語で描かれる一つ目のポイント──<母>は弱い存在で、荒廃した世界での出産を拒み、子供が育ってからも、こんな世界で生きていても苦しいから、子供と心中をしたい、と夫に訴えます。夫は、のらりくらりと明言を避けつつ、自殺はよくない、ということだけを妻に言い聞かせる。妻は、何年かは頑張ったのでしょう。しかし、お互い理解のできないまま関係は冷えてしまい、妻だけ自殺します。まずここがやや不気味なのです。
なにやら言葉にしがたい信念のある夫と、そういう信念のない妻。妻の死については、妻が非常に冷淡に夫を顧みないことで、視聴者の苦痛を減じているのかも知れませんが、この視聴者の苦痛はこの時点で明らかに二分されます。ひとつは<こんな冷たい奥さんなら死んでもよい>。もうひとつは<奥さんにそもそも賛成>という立場です。この二つの立場は後で再考したいので、とりあえずおいておきます。
……それにしてもシャーリーズ・セロンの無駄遣いだなあ。いやね、おいておくといっておいてなんですが、結局、ここでの妻というのは、<楽しいことのない世界だったら死んでしまおうよ>という快楽主義者的な描かれ方だと思うのですね。それが、<楽しくなくても義務というものがある>という立場の父と対比されている。
さて、この物語のもう一つのポイントは<銃>です。この銃は原則、自決用で、自殺した妻が二人のために残したものです。父もその銃を自決用としてとらえ、子供にはもしものときのために自決の方法を教えています。この父も<子供が強姦されたり、苦しんで食べられたりするくらいなら自殺した方がいい>と考えています。同時に、自分たちは南の海岸に人間の尊厳を運ばなければならない。故に危機に際しては、この自決用の銃を人に向けます。
<生きることをリタイアした妻>と<自分で先を切り開くための銃>が、非常に頻繁に登場するのです。それを登場させる主体は、<悩み迷いつつも信念を持つ父>です。なんというかですね、この映画の正体はたぶん「それいけ!アンパンマン シャボン玉のプルン」と同じく<信じろ映画>なような気がするのです。
信じるという行為には、疑惑がつきものです。知るということには疑惑はありません。氷が水に浮かぶということを、ひとは信じる必要がない(ただ知ればよい)けど、人間が共食いをしないことは善であるということは信じなければ、善悪を判定できません。人間の共食いについては、最近の映画だと「ドゥームズデイ」でも描かれていますが、超えてはならない一線として共有されています。人間以外で共食いをする生き物がいる世界で、人間は共食いをしないということはある種、人間が人間であることの証左なのかもしれませんが、過酷な状況に於いてやればできることをやらないためには、信念が必要です。
しかし、信じるということは、ある側面においては思考を停止させることです。くれぐれも人の共食いがいいと言ったり、死んだ妻が妥当だということを強く言いたい訳ではないのですが、誰もが信じるということが難しい中で、しかし信じなければならない、この苦行に向かう父を<妻><銃><息子>を通して描く訳です。
ちゅうわけで、まとめてみると、なんかこの保守的な雰囲気がぷんぷんするのがしんどい訳です。お話の中にはアイデアや発想というものは全くなく、荒廃した都市をうろうろする信念に基づく父をじーっと観察するだけの2時間です。
家族一同、非常に疲労した2時間だったのですが、冒頭に書いた通り、絵はずいぶんときれいでした。というわけで、いちおう残念評価ではないのですが、でも二度みることはなさそうだなあ。