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でべ | 簡易評価: いまいち | 見た日: 2016年03月27日 | 見た回数: 1回
ソフィア・コッポラ監督の映画はどうも苦手。でも思い返してみれば「ヴァージン・スーサイズ」と「マリー・アントワネット」、それから「ロスト・イン・トランスレーション」をつまみ食いした程度で、あんまりよく知らないのかも。たまたま人と映画の話をして、そんなことを考えていたタイミングでひかりテレビで予告を見かけて、それもまた巡り合わせかしらと思って、巻かれてみることに。
でもやっぱり肌が合わないみたい。これがどんな映画か、なにを伝えたくてどんな雰囲気を感じて欲しいのかもよくよく分かるのだけど、ずっと斜に構えた感じがあって素直に受け入れられない。ずっとふわふわと夢見心地でドスンと来るものがない。たった一言のセリフでも一枚の絵(画面?シーン?)でもいい。一瞬でいいからなにかを深く印象づけてほしいのに、注意深く丁寧に「迫力」を取り除いているような。なによりほんとうにふわふわと夢見心地のまま映画が終わってしまう。 ただ、そのふわふわは徹底されているので、出来が悪いとは感じない。それがまた厄介で。出来の悪い映画なら、なんであかんかったのか説明できるんだけど、これは趣味が合わない、としか語れない。
いや、具体的に嫌なところは言えるんだ。ひとつひとつのシーンが私の思うカットのタイミングより1.5倍くらい長いとか、意味を汲み取れ、と言わんばかりの筋と無関係なシーンの挿入とか、主人公が、どんなクラスの人間なのかよく分からないとか。 でも全部、それが主人公の人生の虚しさを表している、と言うなら、反論の余地はない。やっぱり趣味が合わない、としか言いようがない。
でね、考えてみた。ソフィア・コッポラ監督は自分が可愛いと思う女の子を見つけたら彼女で映画を取らずにはいられない。彼女にこんな役をあてて、あんなセリフを言ってほしい。そういう欲望が見える監督は他にもいる。ウディ・アレン映画にもミューズがいるし、リュック・ベッソン作品なんか、見ているうちにだんだん彼の女性の趣味が分かってくる。さてここで、ソフィア・コッポラ作品を振り返ると、キルスティン・ダンスト、スカーレット・ヨハンソン、エル・ファニング。…はかなげで憂いを帯びた、肌の白い、なんとなく少女感のある女性たちばかりな気がする。 そうやって整理して、なんとか自分の気持ちを落ち着けてみる。そうだ、彼女は可愛い女の子を、自分の世界に閉じ込めたいのだ、と。これならなんとか納得できる。それならいい。それを巧妙に隠そうとするから、わたしは困惑するんだ。
というわけで、エル・ファニングちゃんがとにかくチャーミングで可愛い。本人もまわりの大人も、彼女のことをまだまだ子供だと思っているけれど、実は大人を目前に控えたぎりぎりにいる少女。定まりきらない儚さもある。凝り固まった堂々巡りの人生を歩む父親の目線には、まだ何者でもない、ふわふわと漂う彼女がきらきら輝いて見えるのも分かる。あとはとにかく、わたしに分かるようにやってくれれば。
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ソフィア・コッポラ監督の映画はどうも苦手。でも思い返してみれば「ヴァージン・スーサイズ」と「マリー・アントワネット」、それから「ロスト・イン・トランスレーション」をつまみ食いした程度で、あんまりよく知らないのかも。たまたま人と映画の話をして、そんなことを考えていたタイミングでひかりテレビで予告を見かけて、それもまた巡り合わせかしらと思って、巻かれてみることに。
でもやっぱり肌が合わないみたい。これがどんな映画か、なにを伝えたくてどんな雰囲気を感じて欲しいのかもよくよく分かるのだけど、ずっと斜に構えた感じがあって素直に受け入れられない。ずっとふわふわと夢見心地でドスンと来るものがない。たった一言のセリフでも一枚の絵(画面?シーン?)でもいい。一瞬でいいからなにかを深く印象づけてほしいのに、注意深く丁寧に「迫力」を取り除いているような。なによりほんとうにふわふわと夢見心地のまま映画が終わってしまう。
ただ、そのふわふわは徹底されているので、出来が悪いとは感じない。それがまた厄介で。出来の悪い映画なら、なんであかんかったのか説明できるんだけど、これは趣味が合わない、としか語れない。
いや、具体的に嫌なところは言えるんだ。ひとつひとつのシーンが私の思うカットのタイミングより1.5倍くらい長いとか、意味を汲み取れ、と言わんばかりの筋と無関係なシーンの挿入とか、主人公が、どんなクラスの人間なのかよく分からないとか。
でも全部、それが主人公の人生の虚しさを表している、と言うなら、反論の余地はない。やっぱり趣味が合わない、としか言いようがない。
でね、考えてみた。ソフィア・コッポラ監督は自分が可愛いと思う女の子を見つけたら彼女で映画を取らずにはいられない。彼女にこんな役をあてて、あんなセリフを言ってほしい。そういう欲望が見える監督は他にもいる。ウディ・アレン映画にもミューズがいるし、リュック・ベッソン作品なんか、見ているうちにだんだん彼の女性の趣味が分かってくる。さてここで、ソフィア・コッポラ作品を振り返ると、キルスティン・ダンスト、スカーレット・ヨハンソン、エル・ファニング。…はかなげで憂いを帯びた、肌の白い、なんとなく少女感のある女性たちばかりな気がする。
そうやって整理して、なんとか自分の気持ちを落ち着けてみる。そうだ、彼女は可愛い女の子を、自分の世界に閉じ込めたいのだ、と。これならなんとか納得できる。それならいい。それを巧妙に隠そうとするから、わたしは困惑するんだ。
というわけで、エル・ファニングちゃんがとにかくチャーミングで可愛い。本人もまわりの大人も、彼女のことをまだまだ子供だと思っているけれど、実は大人を目前に控えたぎりぎりにいる少女。定まりきらない儚さもある。凝り固まった堂々巡りの人生を歩む父親の目線には、まだ何者でもない、ふわふわと漂う彼女がきらきら輝いて見えるのも分かる。あとはとにかく、わたしに分かるようにやってくれれば。