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でべ | 簡易評価: ざんねん | 見た日: 2012年03月20日 | 見た回数: 1回
決して全部が全部悪いわけではなかった。 頭ごなしに悪くいいたくない。でも良かったというには抵抗がある。
クレジットが終わった暗い画面、絵よりも先に「ノルウェイの森」が静かに響く。音を追いかけて画面が明るくなる。こちらの勝手だけどわりと明確にイメージが決まっていた。小説の冒頭も音から始まるしね。でも思い通りの演出はなくて、ちょっと肩すかしを食らう。これは妄想を広げたわたしが悪い。でもその後も音楽「ノルウェイの森」と小説「ノルウェイの森」がうまくリンクしない。劇中で使えずにエンドロールで流すって、向き合うことを拒否してるようで逃げ腰だなあ。
じつはわたしの妄想は、現実に体験したことで、学生時代に見た舞台。暗転し、暗い中で静かに音が広がる。明るくなるとそこ(舞台)は深い森のなか。その光景があまりに美しくて忘れられない。あらすじもタイトルも忘れてしまった舞台だけれど、その静かで美しい曲が「ノルウェイの森」だということを実はあとから知ったのです。 もちろんその前から小説は読んでいたのに「ノルウェイの森」がどんな曲なのか追求したことはなかった。まったく別なところからやってきたふたつが、わたしの中で印象的につながったのが気持ち良くて忘れられない。確かまったく別の話だけど、あの舞台は演出家なりの「ノルウェイの森」のビジュアル化だったように思う。
さて、本編について。 原作のひょうひょうとしたドライな雰囲気、あれを撮れないなら映画にする意味なんてないと思うんだけど、作り手はどうもそうは思わなかったらしい。どんなにワタナベが「ぼくは空っぽだった」と口にしても、まるで安もののテレビドラマのように、ただ表面をなぞるばかりであるべき間や空虚さがない。 監督がガイジンなので「太陽」や「鉄コン筋クリート」のように、独自の愛を押し通して日本人が悔しがるものが出来るんじゃないか、とちょっとした期待があった。でも残念ながら、役者よりも、スポンサーよりも、とにかく監督力の弱さを感じてしまう映画でした。
ちょっとしたカメラワークにつたなさを感じてしまう。素人のわたしが見ていても、その都度うっと違和感があるのはとても残念。 沈黙する人物にカメラがゆっくりと寄っていくのがどれだけ緊迫感を高めるか、画面を盛り上げていた音楽がばつんと切れたらどれだけ恐怖感をあおるか、無意味な自然の描写、雨だれや揺れる木々がどれだけ気持ちを鈍らせるか、前ぶれなく黒く落ちる画面がどれだけ不安を高めるか、もっともっと注意を払うべきだ。自分が作っている絵がどんな風に観客の気持ちを動かすかを意識して、それを利用できなければ映画なんか作るべきじゃない。もしかしたら、その不安な演出そのものが狙いなのかも?いやいや。なんだか監督が自分の無知を知っているように、カメラの動き、カットの切りかたにおどおどした不安が透けて見える。
原作を読み直さないまま書いているので引用ではないことを断ったうえで、たとえばこんな文章があったとする。 「彼女は少し泣いた。僕たちはキスをした。」 短くて飾り気のない2つの文章。これを映像にするとどうなるのか。 「顔を歪める彼女。やがてすすり泣く声がする。男の肩に頭をもたせかける彼女。ややあってゆっくり顔を上げる。男の顔を見上げキスをする。」 間違いはない。でももっとうまくやる方法があるはずだ。わたしには思いつかないのが悔しいけど、なるほど!と思わせてほしかった。
そんなふうにじっとりと湿っぽくただ話を追っていくと、飽きれるくらい終始セックスの話ばかりで、なんだか情けなくなった。原作を知らずににこの映画だけを見るひとが、今後増えていくだろう。そのひとたちは「なんじゃこりゃ?」と思うだろう。わたしなら思う。そして人前で「ノルウェイの森」が好きだなんて公言する人のことをきっと軽蔑するだろう。
役者はだれもかれも良かった。 作品ごとに違う顔を見せてくれるマツケンは、淡々とした役どころに不思議なおぼこい表情をあてていて残念だけれど悪くなかったし、菊池凛子さん演じる直子は、わたしの思っていた直子とは違ったけどそれでも泣き崩れるシーンや草むらを歩きながら告白する姿には生々しい存在感があった。心配していたモデル上がりのミドリちゃんも、おでこの広さが思った以上にミドリちゃんで、実は一番のハマリ役かも。
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決して全部が全部悪いわけではなかった。
頭ごなしに悪くいいたくない。でも良かったというには抵抗がある。
クレジットが終わった暗い画面、絵よりも先に「ノルウェイの森」が静かに響く。音を追いかけて画面が明るくなる。こちらの勝手だけどわりと明確にイメージが決まっていた。小説の冒頭も音から始まるしね。でも思い通りの演出はなくて、ちょっと肩すかしを食らう。これは妄想を広げたわたしが悪い。でもその後も音楽「ノルウェイの森」と小説「ノルウェイの森」がうまくリンクしない。劇中で使えずにエンドロールで流すって、向き合うことを拒否してるようで逃げ腰だなあ。
じつはわたしの妄想は、現実に体験したことで、学生時代に見た舞台。暗転し、暗い中で静かに音が広がる。明るくなるとそこ(舞台)は深い森のなか。その光景があまりに美しくて忘れられない。あらすじもタイトルも忘れてしまった舞台だけれど、その静かで美しい曲が「ノルウェイの森」だということを実はあとから知ったのです。
もちろんその前から小説は読んでいたのに「ノルウェイの森」がどんな曲なのか追求したことはなかった。まったく別なところからやってきたふたつが、わたしの中で印象的につながったのが気持ち良くて忘れられない。確かまったく別の話だけど、あの舞台は演出家なりの「ノルウェイの森」のビジュアル化だったように思う。
さて、本編について。
原作のひょうひょうとしたドライな雰囲気、あれを撮れないなら映画にする意味なんてないと思うんだけど、作り手はどうもそうは思わなかったらしい。どんなにワタナベが「ぼくは空っぽだった」と口にしても、まるで安もののテレビドラマのように、ただ表面をなぞるばかりであるべき間や空虚さがない。
監督がガイジンなので「太陽」や「鉄コン筋クリート」のように、独自の愛を押し通して日本人が悔しがるものが出来るんじゃないか、とちょっとした期待があった。でも残念ながら、役者よりも、スポンサーよりも、とにかく監督力の弱さを感じてしまう映画でした。
ちょっとしたカメラワークにつたなさを感じてしまう。素人のわたしが見ていても、その都度うっと違和感があるのはとても残念。
沈黙する人物にカメラがゆっくりと寄っていくのがどれだけ緊迫感を高めるか、画面を盛り上げていた音楽がばつんと切れたらどれだけ恐怖感をあおるか、無意味な自然の描写、雨だれや揺れる木々がどれだけ気持ちを鈍らせるか、前ぶれなく黒く落ちる画面がどれだけ不安を高めるか、もっともっと注意を払うべきだ。自分が作っている絵がどんな風に観客の気持ちを動かすかを意識して、それを利用できなければ映画なんか作るべきじゃない。もしかしたら、その不安な演出そのものが狙いなのかも?いやいや。なんだか監督が自分の無知を知っているように、カメラの動き、カットの切りかたにおどおどした不安が透けて見える。
原作を読み直さないまま書いているので引用ではないことを断ったうえで、たとえばこんな文章があったとする。
「彼女は少し泣いた。僕たちはキスをした。」
短くて飾り気のない2つの文章。これを映像にするとどうなるのか。
「顔を歪める彼女。やがてすすり泣く声がする。男の肩に頭をもたせかける彼女。ややあってゆっくり顔を上げる。男の顔を見上げキスをする。」
間違いはない。でももっとうまくやる方法があるはずだ。わたしには思いつかないのが悔しいけど、なるほど!と思わせてほしかった。
そんなふうにじっとりと湿っぽくただ話を追っていくと、飽きれるくらい終始セックスの話ばかりで、なんだか情けなくなった。原作を知らずににこの映画だけを見るひとが、今後増えていくだろう。そのひとたちは「なんじゃこりゃ?」と思うだろう。わたしなら思う。そして人前で「ノルウェイの森」が好きだなんて公言する人のことをきっと軽蔑するだろう。
役者はだれもかれも良かった。
作品ごとに違う顔を見せてくれるマツケンは、淡々とした役どころに不思議なおぼこい表情をあてていて残念だけれど悪くなかったし、菊池凛子さん演じる直子は、わたしの思っていた直子とは違ったけどそれでも泣き崩れるシーンや草むらを歩きながら告白する姿には生々しい存在感があった。心配していたモデル上がりのミドリちゃんも、おでこの広さが思った以上にミドリちゃんで、実は一番のハマリ役かも。