「ミンキーモモ」は、意外にまじめにシナリオが練られている

# このページとってもネタバレなので、お気をつけて!

「ミンキーモモ」を作った人には失礼な雑学表題ですが、「ミンキーモモ」のシリーズ、最近、娘と見るまでは、「どうせおもちゃ会社とのタイアップ戦略ばかりに執心して、子どもに見せるということをまじめに考えたような作品ではないだろう」ともっと失礼な印象を持っていたのです。
で、まあそのままだったら一生見ることはなかったと思うのですが、娘のおたふく風邪による保育園長期休暇があったりして、Gyaoで全話見ることがあり、途中かなり歯抜けはあるものの、いわゆる「空モモ」「海モモ」の双方を見たのです。

両モモともに、基本的には同じ目的を持っていて、全体的に減りつつある人間の「夢見る力」を昔のように増やしていきたい、という目的です。
この目的を達成することによって、かつて地球付近にたくさんあった「夢の国」たちが、かつての力と存在感をとりもどすのです。
また、両モモともに、大人(18歳のなんらかのエキスパート)になる魔法を得意としています。つまり子どもにはできないことも、大人になればできるようになる、という(非常に素朴な)ロジックで、各話の問題を解決していく(=なにかの夢を叶えていく)ことで話は進んでいきます。

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「空モモ」の最終回(につながる一連の流れ)については、当時からそれなりにショッキングだったようで、モモの交通死亡事故から生まれ変わり、そして悪夢との戦いについては、ウェブ上でもけっこう言及があるようです。


たしかに最終回のセリフ、象徴的な形に実体化している「悪夢」との対話で、夢などすべてついえていくのだというような「悪夢」の主張に対し、

モモ:そりゃ人に夢をあげることはできないかもしれない。(中略)あたしは夢を捨てない!
悪夢:人間になったお前にワシに勝つ力はない!
モモ:あたしが、人間の大人になったときそれが分かるわ!

というセリフは、ミンキーモモが、本作で最後に大人になる魔法を使う場面としては、かなり格好のよいセリフだと思います。

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でも、驚いたのはむしろ「海モモ」のほうでした。
シリーズ後半、ぜんぜんモモは大人に変身する魔法を使わないのです。
それどころか、モモの努力にも関わらず、地球の夢の総量がどんどん減ってゆき、「地球の夢の力を魔法のエネルギーに変換する機構」がほとんど機能しなくなります(つまりろくな魔法が使えなくなる)。

また、それぞれの話でも、モモの力で解決できない、かなえられない夢が目立ってきます。すごいのは、とある映画監督の夢を叶えるために、モモはありったけの魔法を使って、大人の自分を大量に生み出し、映画を撮ろうとします。この映画監督は、作品とオーバラップしているのですが、「フェナリナーサ」という架空の夢の世界から、架空の魔法使いの女の子「モモ」がくる、という映画を撮ろうとしています。オーディションで、人間に生まれ変わったモモと海モモが残り、奇しくも彼女たち本人を主役にして、映画を撮るのですが、最後、夢の世界が空高く舞い上がるシーンで、事故が起こり、フェナリナーサのセットは燃えてしまいます。


また、なんと、とどめのように、もともと夢の世界の住人である海モモは、フィルムにうつっていないことがわかります。監督の夢を叶えられなかった海モモは傷つくのですが、それに対し人間になったモモは、海モモの存在意義を否定しかねない「他人の夢を叶えたってしょうがない、自分の夢を見なくては」というえらく達観した趣旨のことを述べ去ってゆきます(ただし海モモと空モモの関係は悪くないよう)。

海モモの最終回では、夢のなくなった地球では、マリンナーサ(海モモの故郷)は存在できない、また夢の世界の住人も存在できないということで、地球を見捨てての一斉退去が行われます。海モモは葛藤しますが、いつ自分の存在が消えてしまうかわからないという事実を受け止めた上で、結局地球に残ることを決意し、宇宙に去っていくマリンナーサを見送る……ということになります。

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子ども向けアニメなのに、「地球は夢がなくなって、夢の国の住人に見捨てられました」というラストに、お父さん(僕)はびっくりです。

要はすっかり舐めてたのです。どうせなんかきれいごとをいって終わるのだろうと思ったら、「主人公のこれまでの努力は無駄でした。そもそも夢は他人に叶えてもらうものではないですよ」というラスト。加えて、最終回にもちらっと人間になった空モモが出てきますが、海モモとのわずかの邂逅の翌日、窓を開けての第一声は「今日も元気だ、空気が……マズい……」なんです(空モモはロンドンにすんでいるのだそうですが、このシーン、窓の向こうには排煙の煙突が立ち並んでいます)。そういう地球だけが残されて、海モモは魔法を失い、地球の両親の元で普通の女の子として過ごす……。


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こんなときこそWikipedia。と思って一通り読んでみると、非常になっとくの記述の数々。
ちょっと長文引用ですが、

(制作担当者の言として)「名作なんて(言われなくても)いいんです、30分のCMだと思ってください」と言われたことを書き記している。これは本作に限らず、当時の多くのテレビアニメの現場で聞かれた発言である。しかし、本作はそれに反発するかのように、お題目だけで終わることの多い「少女が夢を与える」という設定に正面から向き合った稀有な作品となった。冷戦の真っ只中の当時「人間が滅びれば夢もなくなる」という次元にまで話の内容は引き上げられ、ごく普通の魔法少女だったモモは核攻撃を阻止するまでになっていた。

つぎは海モモの方。

「90年代初期の「海モモ」の時代には「大人になったからといって、何ができるというんだ」「むしろ何もできはしない」という雰囲気が子供たちの間に、漂ってきていたようだ。(中略)90年代には、大人になる事が「夢」へのきっかけとして機能しなくなっていた。「夢」がキーワードのミンキーモモは、90年代の「夢」がなんであるかを、探さなければならない作品になってきたのだ。」と回想している。
こうした時代における夢を語るため、核戦争、地球環境問題、民族紛争、受験戦争等、現実の社会問題が取り上げられた。湯山(総監督)はミンキーモモは日常の物語ではないために社会性を帯びてきてしまい、現実の問題に直面せざるを得なかったと述べている。物語はお気楽で明るく描かれている一方で、個々のエピソードのテーマは重いものになっていった。

やーん。

まったくそのとおり。

最初は唐突に出てくる英語(「なぜなの? teach me why?」とか「(電話に出て)モモです。momo speaking」)とか、モモ語(ダバダバ語?)とでもいうのでしょうか「ジョブジョブ、ダイジョブ」などの不思議なセンスに翻弄されていたのですが、いやあ、すみませんでした。お詫びして、再評価させていただきます。
また、奥さんのセリフ「昔のアニメって、ハッピーエンドでないものがけっこうあるよね」というのも印象的でした。

ジャンル: アニメ文化